http://www.asahi.com/paper/editorial20070104.html
近ごろは規範を守らず、社会のしきたりを損なうものが大勢いる。これは教学の本意ではない。道徳を教え、誠実品行を尊重させるべきだ」
最近の言葉と思われるかもしれないが、そうではない。約130年前の明治12(1879)年、明治天皇が発した「教学聖旨」を現代風の表記に改めたものだ。
維新後の政府によって学校が制度化されてから、7年後のことである。
これに対し、内務卿の伊藤博文は「教育議」を奏上して異議を唱えた。
社会の乱れの大きな原因は、維新後の時代の変化にある。教育のせいだけではない。教育は水がしみ込むようにゆっくりと進めるものだ。「急(きゅう)施(し)紛(ふん)更(こう)以(もっ)て速効を求むべからず」。あわてて教育を変え、速やかな効果を求めてはならない、というのである。
国が徳目を決めて国民に教え込むことについても、伊藤は反対した。一つの国教をつくって広めるようなことは、賢人や哲人の出現を待つべきだ。政府がやるべきことではない、と。
伊藤は後に初代総理大臣となる実力者である。しかし、流れには抗しがたかったのだろう。この翌年の教育令改正で、「修身」が教科の筆頭に置かれた。
その伊藤も、教師への締めつけは強めようとした。教師を規則で束ね、心得を守らせ、生徒の模範たらしめよ。教育議にそう書いている。
教学聖旨の2年後には、文部省が「小学校教員心得」をつくり、尊王愛国と道徳を教えることを教師に徹底する。
この明治の時代と、教育基本法の改正が進められた近年はよく似ている。日本教育学会会長を務めた寺崎昌男・東大名誉教授はそう指摘し、次のように語る。
「社会に問題が起これば、教育のせいにされ、最後は教師が責任を押しつけられる。明治に起きたことがまた繰り返されるだろうと、私は教師たちに話してきました」
教育基本法の改正論議では、教師が厳しく批判された。安倍首相の肝いりの教育再生会議でも、「ダメ教師」がやり玉に挙げられている。
教育議から11年後、「教育勅語」が発布された。天皇の神格化が進み、軍部はそれを利用して戦争へ突き進んだ。
もちろん、歴史は単純に繰り返すわけではない。いまと戦前では、社会のありようがすっかり違う。しかし、「明日」を見通すためには、過去に学ぶべきものも見つけた方がいい。
その意味では、教育の速効を戒めた伊藤の主張は、現代にも通じそうだ。
学校の制度をめまぐるしく変えるよりも、じっくりと取り組む。悪いところばかりに目を向けるのではなく、うまくいっている教室に学び、広げていく。今年こそ、そうした発想ができないものか。
× × ×
様々な分野で過去を踏まえ、「明日」のあるべき姿をシリーズで考えたい。
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